魔法使いのおばあちゃん。
今年、私のおじいちゃんとおばあちゃんは68歳になった(二人は高校の同級生で大恋愛の末に結婚したとか。女子高生の私にはうらやましいかぎり…)。会社人間だったおじいちゃんは、定年退職の後、しばらく退屈そうにしていたが、近所の人の誘いでボランティア活動を始めていた。しかし、その日は、突然訪れた。まだお正月気分が抜けないとても寒い日の朝、おじいちゃんの様子がおかしくなった。すぐに病院に運ばれたのだが、脳の病気だそうで、もう少し発見が遅くなると大変なことになっていたらしい。幸いなことに後遺症は比較的軽かった。しかし今まで元気だけがとりえだったおじいちゃんにとっては精神的にも非常にダメージを負ってしまったようだ。退院の日にお見舞いに行った時も神妙な顔をしていた。おばあちゃんが車椅子を押しながら病室に入って来ても窓の外を眺めているばかりだった。「この車椅子ね、今、リースで借りてきたのよ。どんな体型でもジャストフィットするように、背面と座面の張り具合が微妙に調整できるように工夫されているンだって。ほら、カンタンでしょ。バリバリバリバリ…」。おじいちゃんはしぶしぶながらその座り心地を確かめるように車椅子に乗り、帰宅した。しかしその日以来、自宅に戻っても寝たきりの状態であるらしい。病院の先生もリハビリをすすめるが、まったくその意志がないという。おばあちゃんにとっては、カラダの大きなおじいちゃんをベッドから起こすだけでも大変に違いない。さすがに最近腰痛がひどくなったとみえ、おばあちゃんは腰にコルセットのベルトを巻きはじめた。「なんだかフクザツな気分よねえ。だって介護用品の店に介護する側の商品も売っているンだから」。そう言って介護用品店から買ってきたそのベルトをおじいちゃんの見えないところで強く締める。「バリバリバリバリ…」。おじいちゃんのパジャマも見せてくれた。「ほら、ボタンと違ってこれなら着たり脱いだりしやすいでしょう。バリバリバリバリ…。これからはリハビリも兼ねてできるだけ自分で着替えてもらうつもりよ」。これも介護商品らしい。「でもね、おじいちゃんには介護商品って言わないのよ。自立商品って呼ぶの。そのほうが前向きな気持ちになれるでしょ」。「バリバリバリバリ…」それはマジックテープの音です。マジックテープはクラレの面ファスナーの登録商標で、現在ではアパレル•スポーツ用品から工業産業用資材、さらにはメディカル関連用品まで様々な用途に用いられています。カギ状のフックがループに引っかかることによってワンタッチで止められカンタンにはがせる、というのが魔法のタネですが、そこに使う人の創意と工夫(そして、なにより、思いやり)を加えることによって魔法が無限の可能性を引き出してくれるのです。この2006年4月、来る団塊の世代による高齢化社会を想定して介護保険法が大幅に見直されました。筋力トレーニングなど介護予防サービスが新たな柱として新設されましたが、それはこれから国民ひとりひとりに自立する意識が問われる時代がやって来ることを暗示しているように感じます。便利なだけではマジックテープとは呼べません。前向きに生きる人々の魔法のツールでありつづけるために、私たちクラレもしっかりと高齢化社会に向かい合っていこうと思います(最近、病室でお隣さんに聞こえにくい減音タイプも開発しました。ちなみにその音はパリパリパリ…です)。今年も桜が咲いた。公園に出かける約束をしていたので迎えに行くと、玄関先にふたりがいた。「この靴はね、とても履きやすくて微妙な調整もできて歩きやすいンだって。ねえ、ちょっと履いてみない?」そしてためらうおじいちゃんにおばあちゃんはこう続けた。「外国でハンデをしょってる人をどう呼ぶか知ってる?チャレンジャーって言うンだって…」。その一言で、おじいちゃんは自分でその靴を履き始めた。「バリバリバリバリ…」。車椅子にはおじいちゃんの趣味のカメラがマジックテープで装着されていた。おばあちゃんの特製だろう。「久しぶりにかわいい孫でも撮るか」とおじいちゃんは空を見上げた。朝から黒い雲に覆われていたが、突然まぶしい春の太陽が顔をのぞかせた。これもおばあちゃんの魔法かもしれない。
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